流星街

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日文阅读:漫步-----ゆっくり歩く

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发表于 2004-2-22 11:19:27 | 显示全部楼层 |阅读模式
冬の取っ付きである。小春(こはる)と云えば名前を聞いてさえ熟柿(じゅくし)のようないい心持になる。ことに今年はいつになく暖かなので袷羽織(あわせばおり)に綿入(わたいれ)一枚の出で立ちさえ軽々(かろがろ)とした快い感じを添える。先の斜(なな)めに減った杖を振り廻しながら寂光院と大師流(だいしりゅう)に古い紺青(こんじょう)で彫りつけた額を眺めて門を這入(はい)ると、精舎(しょうじゃ)は格別なもので門内は蕭条(しょうじょう)として一塵の痕(あと)も留めぬほど掃除が行き届いている。これはうれしい。肌(はだ)の細かな赤土が泥濘(ぬか)りもせず干乾(ひから)びもせず、ねっとりとして日の色を含んだ景色(けしき)ほどありがたいものはない。西片町は学者町か知らないが雅(が)な家は無論の事、落ちついた土の色さえ見られないくらい近頃は住宅が多くなった。学者がそれだけ殖(ふ)えたのか、あるいは学者がそれだけ不風流なのか、まだ研究して見ないから分らないが、こうやって広々とした境内(けいだい)へ来ると、平生は学者町で満足を表していた眼にも何となく坊主の生活が羨しくなる。門の左右には周囲二尺ほどな赤松が泰然として控えている。大方(おおかた)百年くらい前からかくのごとく控えているのだろう。鷹揚(おうよう)なところが頼母(たのも)しい。神無月(かんなづき)の松の落葉とか昔は称(とな)えたものだそうだが葉を振った景色は少しも見えない。ただ蟠(わだかま)った根が奇麗な土の中から瘤(こぶ)だらけの骨を一二寸露(あら)わしているばかりだ。老僧か、小坊主か納所(なっしょ)かあるいは門番が凝り性(こりしょう)で大方日に三度くらい掃くのだろう。松を左右に見て半町ほど行くとつき当りが本堂で、その右が庫裏(くり)である。本堂の正面にも金泥(きんでい)の額が懸って、鳥の糞か、紙を噛(か)んで叩きつけたのか点々と筆者の神聖を汚がしている。八寸角の欅柱(けやきばしら)には、のたくった草書の聯(れん)が読めるなら読んで見ると澄してかかっている。なるほど読めない。読めないところをもって見るとよほど名家の書いたものに違いない。ことによると王羲之(おうぎし)かも知れない。えらそうで読めない字を見ると余は必ず王羲之にしたくなる。王羲之にしないと古い妙な感じが起らない。本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏(ばけいちょう)がある。ただし化(ばけ)の字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈(かいわい)で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化(ば)けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱(みかかえ)もあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振って、から坊主になって、野分(のわき)のなかに唸(うな)っているのだが、今年(ことし)は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金(こがね)の雲が、穏かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲(べっこう)のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背(そむ)いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳(ようえい)して遊んでいるように思われる。閑静である。

  ――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重ならしめぬくらい、否(いな)その一点の動く事それ自らが定寂(じょうじゃく)の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思(はんし)せしむるに足るほどに靡(なび)いたなら――その時が一番閑寂(かんじゃく)の感を与える者だ。銀杏(いちょう)の葉の一陣の風なきに散る風情(ふぜい)は正にこれである。限りもない葉が朝(あした)、夕(ゆうべ)を厭(いと)わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧もここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除の煩(はん)を避けたものか、または堆(うずた)かき落葉を興ある者と眺めて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。

問題: 1. この一段の文章の中に描いた景色はいつ頃のことですか。 2. この文章を読んで、「わたし」のどんな気持ちが感じ取れますか。 3. 「わたし」はなぜ「えらそうで読めない字を見ると余は必ず王羲之にしたくなる」のですか。 参考答案: 1. 冬の末で、春めいた暖かい季節のことです。 2. 「わたし」この冬のお寺を訪ねることによって、忙しい、煩わしい世の中から暫く離れて、一種の閑静の気持ちが感じ取れます。 3. 王羲之は書道の代表人物で、彼にしないと古い妙な感じが起らないと「私」は思ったからです。
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